著:マウゴジャタ スラブ世界研究所フェロー、通訳(日本語・ポーランド語・英語)、エッセイスト 皆様、こんにちは。
ご存じの方も多いと思いますが、「3月1日はショパンの生誕日だ」というのは、確かではありません。教会の記録書によると、ショパンが生まれたのは2月22日です。生誕年は1810年であることは間違いないです。
今日はショパンの生家をご紹介したいと思います。既に行かれた方がかなり多いでしょう。彼の生家はワルシャワから54キロ離れているジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)という村にあります*。 *https://maps.app.goo.gl/oK2Mi7a3WAkTGgXG8 びっくりなさるかもしれませんが、その村の人口は約60人だけです。ショパンのおかげで有名な場所になりました。
ショパン時代には、ショパンが生まれた家以外、ショパンの親戚である伯爵の館や他の建物も建っていました。しかし、1812年、館が燃やされてしまいました。奇跡かもしれませんが、館の東別館であったショパン生家と西別館は焼失しなかったのです。残念なことに、西別館は第一次世界大戦中に破壊されてしまいました。ショパン生家が結構な被害を受けたにもかかわらず、壊されなかったのも、また奇跡です。
第一次世界大戦後、ショパンの生まれた家は修復され、1939年6月に観光客が一般公開され、「ショパンの邸宅」と呼ばれるようになりました。ところが、同年9月1日に第二次世界大戦が始まりました。戦争中、生家にはドイツ兵が駐留していました。戦争末期には、病院として使用されました。そのとき、プレイエルのコンサートピアノやショパンの肘掛け椅子2脚など、多くの貴重品が失われてしまいました。
戦後、生家は再び修復され、1949年にはショパン没後100年を記念して、ショパンの生家は博物館として開館されました。
生家の入り口の写真をご覧になりますと、2本の円柱が見えますが、昔はこんな立派な入り口ではなかったです。単なるドアだけだったそうです。また、今は全ての床が木材で作られたフローリングですが、昔はただの土間でした。
ショパン一家は1810年9月の間にワルシャワに引っ越しました。ですから、ショパンは自分の生まれた家にわずか7ヶ月しか住めなかったです。彼は田舎が好きでしたから、できる限り生家を訪れていました。
では、寒い日々が続いていますので、ご身体にお気をつけて、お過ごしください。
写真⇨生家を囲んでいる公園。ショパンのために鋳造された最初の記念碑「オベリスク」が建立されている。1894に作られ、ショパンゆかりの記念碑としては最古のもの。
10数年前に、観光で訪れました。確かに、立派なおうちに見えましたが、後から修復で付け加えられた部分があったのですね。なるほどです。